石井勲(いしいいさお)先生は小学校で独自の漢字教育法(石井方式)を提唱され、14年間にわたり実践を続けられました。確固たる成果を上げられ著名な方々の賛同も得ましたが、公立校という大きな壁に阻まれ充分には理解を得られず、昭和42年3月に退職されました。石井先生は、著書『石井式漢字教育革命』(グリーンアロー出版社)の最終章で次のように綴っておられます。
教育学博士 石井勲先生
真の教育法は、教える子供たちから学ぶものだと思う。私は、十四年間、教え子たちから実に多くのことを教えられた。「漢字がかなよりも覚えやすい」ことをはじめ、私が発見した新しい事実は、結局のところ、皆教え子たちに教えられたものである。 昭和四十二年、子供たちと一緒に運動場を駆け回ることが負担に感じられるようになった私は、小学校の職を退いた。しかし、今でも、私の研究所に通って来てくれる子供たちに、必ず毎週二日だけは都合をつけて、子供たちを指導することに励んでいる。 -中略- 幼児の可能性の大きいことは、今は知らぬ者はないと言ってもよかろう。しかし、どれほど大きいかは、そしてそれがどこまで伸びるのかは、だれもわからない。こういう幼児と、毎日ではないが、接していられることは楽しいものである。死ぬまで続けていきたいものである。
❞同年12月、石井先生の著書『1年生でも新聞が読める』(講談社)を手にされた大阪市の小路幼稚園園長・井上文克先生は、石井先生の漢字教育法は幼児期にこそ行うべき教育であると考えられ、即座に石井先生の自宅を訪問されました。石井方式は、この時点で小学校教育から幼児教育へと一大転機を迎えることになりました。翌年から数か園の幼稚園で石井方式が開始されましたが、この教育を継続し実践していくための絵本や教材が必要でした。そこで、石井先生からさまざまなご助言を頂き、実践園の園長先生たちが集まり討議を重ね、教材発行面の中核部分には登龍館 初代社長の田中登が加わり、本格的な教材作りもスタートしました。
昭和43年4月、この教育を広く発信する組織として「幼年国語教育会」が設立され、会長には井上文克先生が就任しました。会は実践園の情報交換、研修会開催企画、教材作りの場となりました。同年4月、大阪の8か園で石井方式の実践がスタートしました。恐る恐る始めた現場の先生も、実際に行ってみると子供たちの反応が今までとは違う、と画期的な教育法に目を白黒させていました。「漢字を教える」のではなく、「漢字で教える」ことによって、子供たちの集中力を引き出す教育は、保護者の理解を得ることもできました。
しかし、保守的な幼児教育界では、「まだ仮名も知らない幼児に漢字を教えるとは何事か」という非難の声が数多く上がりました。それに併せてマスコミも興味本位に取り上げることが多く、普及の妨げになったのも事実です。そのような中、国語学者で当時学習院大学教授であった大野晋先生の次の記事が週刊朝日に掲載されました。
幼稚園への入園率は年々増加の一途をたどっている。この新鮮な時期に、基本的な漢字の読み方を覚えてしまうなら、こんな便利なことはないだろう。少なく見積っても、幼稚園で平均四百字くらい読めるようにすることは可能らしい。この新しい教育の先頭に立つ井上文克、宮地武久、高島博、田中登の諸氏は、単に、復古的に漢字を多く覚えさせればよいと考えていない。試行錯誤を重ねながら、教育の工具として漢字を幼児に与え、それによって事物の正確な認識、上下左右の観念とか、数量の大小の観念とかを、幼児に正確に与えようとする所から出発した。そして小学校以降における、思考力の発展の基本的障害の一つとされている漢字アレルギーを吹きとばそうとしている。
−中略−
「漢字で教育」という方式――これはご存じの石井勲氏の方式の拡張なのだが――、これがどんな成果をこれからあげるか。固定観念の打破によって前進があるとすれば、この新教育は注目に値する試みである。
(週刊朝日
昭和43年7月12日号より)
石井方式がスタートして、各方面から非難、中傷が噴出する中、活動を絶賛する記事を手に取り、一同は喜び合いました。指導用絵本としては、石井先生の指導をいただき幼文社(実践園等の共同出資で設立)から「幼児のための漢字の絵本」が発行されました。発行部数も少なく、十分な内容とは言えませんでしたが、現場の先生や子供たちからは、「赤い絵本」と親しみを持って呼ばれていたそうです。
石井勲先生と井上文克先生、教材の発行に携わる登龍館の田中登社長は、出会ってから数年間、3人で全国各地の幼稚園や保育園を回り、石井方式の普及に努めました。その際、一行は3人部屋に宿泊し、夜が更けるまで教育について語り合いました。当時、ごく一部の理解ある幼稚園・保育園を別にすれば、幼児への漢字教育に対する風当たりは強く、四面楚歌のような状態でした。
しかし、先述した大野晋先生をはじめ、「時事放談」レギュラー出演者の小汀利得先生、東大名誉教授の阿部吉雄先生、洋画家の林武先生など多方面から諸先生が支援してくださるようになってきました。そんな頃、石井先生、井上先生、田中社長の3人は全国行脚の折、神奈川県の箱根に滞在する機会がありました。石井先生はその時を次のように述懐されています。
その頃、箱根の“花園”といふ旅館に、今は亡き田中社長と井上先生と一緒に泊まり、いろいろ相談した事があった。その時、宿の名前に因んで、“花園文庫”と付けた事は、記憶にまだ新しい。『三国志』で、劉備が関羽、張飛と義兄弟の契りを結んだのが、桃の“花園”だった。だから、そんな事をも思ひ合せて、希望を大きく膨らませたものである。
❞この時、構想中だった新たな漢字かな交じり絵本シリーズ「花園文庫」が命名され、昭和46年4月、登龍館より刊行が開始されました。さて、3人が各地を回るうちに、石井方式を実践する幼稚園・保育園は徐々に増加していきました。当初は園ごとに、園長先生や職員の先生あるいは保護者の方々に、実演を交えた啓発活動を展開していましたが、次第に石井先生の講演をもう一度拝聴したいという園の先生の希望も増えてきました。また、石井方式に興味を持った複数の園が同時にその講習会の開催を求めてきたこともありました。多数の園から石井先生の講演や石井方式の講習会の要望が高まってきたのです。そのような要望に応えようと、複数の園の先生方が一堂に会し、石井方式の理論面と実践面とを一度に学べる全国規模の研修大会の企画が持ち上がりました。
石井勲先生一行は全国を行脚する中で、大規模な研修会の構想を語り合いました。そして、幼年国語教育会が発足した翌年の昭和44年、第1回目となる全国規模の夏期研修会(当時の名称は全国研修大会)の開催を決定しました。会場に選んだのは鈴鹿サーキット。数年前に国内初の本格的サーキットとして建設され、遊園地や1万人のマンモスプールなどのレジャー施設も併設され注目を集めていました。
昭和44年8月22日、第1回夏期研修会の幕が開きました。鈴鹿サーキットのホールは参加者で溢れました。全国から50か園、200名を超える参加者です。講師は、石井勲先生と国語学者の大野晋先生(学習院大学教授)。それに、国語審議会委員も務め国語に造詣の深い吉田富三先生(医学博士・癌研究所所長)による記念講演が続きました。石井先生は当時のユニークな思い出をこう記されています。
この時、私は吉田先生と二人乗りのモノレールカーに乗って遊んだ。世界に著名な大医学者が、玩具の車に乗って子供のやうに興じられる姿は、今も昨日のやうに鮮かに思ひ浮べる事が出来る。
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